凍

臨床看護2006年3月号 ほんのひととき 掲載
“山頂を見上げると,雪が降っているにもかかわらず,西から強い風が吹き,雲が流れ,青空が見える瞬間すらある。すべてが美しかった。(中略)
 全身の感覚が全開され,研ぎ澄まされ,下界のすべてのものが一挙に体の中に入ってくる。雪煙となって風に飛ばされる雪の粉の一粒一粒がはっきりと見えるようだった。いいな,俺はいい状態に入っているな,と思った"(本書より)

 今年の正月休みに読む本を探していたとき,友人から一押しに勧められたのが本書『凍』でした。例年になく厳しい寒気が押し寄せて,日本海側の各地では記録的な大雪が降り続くこの冬に読むにはぴったりと思って買い求めました。
 凍,フリーズするクライマーの登攀と遭難の物語くらいに思って読み始めた途端に,“妙子をこの急な崖のどこが迎え入れるのか。山野井がそう思って視線を上から下に向けた瞬間だった。腹の底に響きわたる低い音とともに,激しい勢いで雪の塊が覆いかぶさってきた。雪崩だった。雪崩に直撃されていたのだ"(本書より)という雪崩に巻き込まれてしまったような大きな衝撃を受けました。
 本書は2005年8月号の雑誌「新潮」に連載された『百の谷,雪の嶺』を改題して9月に刊行されました。この「百の谷,雪の嶺」というのは,ネパールとチベットの国境にあるヒマラヤの高峰群のなかでもとりわけ未踏の谷の奥深くにある,チベット語でギャチュンカン(中国語では百谷雪嶺)という山(標高7,952m)からとったそうでう。
 そして単行本に刊行するとき『凍』とした経緯を作者の沢木さんはあとがきで次のように述べています。
 “あの世界を構成しているのは,ギャチュンカンという山と,その北壁に挑んだ登山家の山野井泰史,妙子夫妻の両者であり,その全体を包み込む言葉としては,「凍」以上のものはないのではないか。(中略)
 「凍」が凍りつく,凍えるといった意味だけでなく,音として「闘」とつながるという発見があったかもしれない。彼らは間違いなく,圧倒的な「凍」の世界で,全力を尽くして「闘」することを続けたのだ"
 作者の沢木さんの非常に緻密な取材をもとに事実を執拗に明らかにする姿勢と,淡々とした描写を追っていくとノンフィクションというジャンルに入る本なのでしょう。しかし優れたノンフィクション作品が小説を凌駕する感動をもたらすことは,みなさんにも経験があると思います。
 “雪崩による「一瞬の魔」は,美しい氷壁死の壁に変えた。宙吊りになった妻の頭上で,生きて帰れるために迫られた後戻りできない選択とは…フィクション,ノンフィクションの枠を超え,圧倒的存在感で屹立する,ある登山の物語“と書評にありました。
 単に登山の物語ではなく,様々な読み方ができると思います。なぜ山に登るのか? という登山家の心理,登山法の変遷にみる欧米と日本の文化の違い,登山の装備と食事,低酸素状態での体と心の生理的変化,さらには凍傷の治療とそのあとのリハビリなどなど。
 私がもっとも印象に残ったことは,山野井夫婦の姿に単なる登山家という範疇を超えた,まるでDef Tecの歌「My Way」にあるような「地に足つけ,雲を突き抜け」たような爽やかと明るさが強く感じられた点です。
 “初登であるかどうかは,登山の面白さを保証する絶対的な条件ではない。しかし,第2登以後の登山では,面白さの何割かが減ってしまうことは間違いない。山野井が初登にこだわるとすれば,それは名誉欲より,登山の面白さをより味わいたいという貪欲さによっていた"(本書より)
 美を追い求める芸術家,真理を追い求める科学者など新しい道を切り拓くパイオニアと呼ばれる人々にも共通する真摯さを山野井夫妻にみることができると思います。

 “疲れ切った二人はぐっすりと眠った。夜が明けても眠り続けた。平らであり,落ちる心配がないということがどれほどありがたかったことか“(本書より)