家庭のような病院を

人生の最終章をあったかい空間で 家庭のような病院を

人生の最終章をあったかい空間で 家庭のような病院を

臨床看護2008年9月号 ほんのひととき 掲載
“ナラティブホーム 
そこには人生の最終章を家族と共にゆっくりと安心して過ごせる空間がある
ただ傍らに在り 温もりを感じ声なき声を聴け ただそれだけでいい ケアの原点は 心象の絆にある”(本書 はじめにより)

富山県砺波(となみ)市に新しい高齢者医療住居が誕生するという話を、読者の皆さんはもうご存知かもしれません。本書はその提言者である市立砺波総合病院地域医療部の佐藤伸彦先生が、この新しい住居「ナラティブホーム」を作るまでの約4年間の経緯をまとめた本です。今年の4月に刊行されたばかりです。私は老人福祉医療政策にたずさわる大学の友人から教えてもらいました。
“そこでは、家族とスタッフと医師が一緒になって、患者の元気なときからの生活史を作成します。ナラティブアルバムと呼ばれる生活史を作ると、スタッフも患者を一人の人格として扱うようになりました。カルテには、高齢者のつぶやきを細大漏らさず記録し、ナラティブシートとして家族に読んでもらいます。第三者にはまったく無意味なつぶやきも、遺族にとってはとても意味のあるものなのです。そして医師は患者の葬儀にも参列して、経過の報告をします”(本書より)
4年前に、偽りの正義感で理想を語る人間で終わりたくないと思い立った佐藤先生がたどった具体的構想ができるまでの過程、そして以前からの医師としての生き方を、まさにナラティブな物語のように描かれています。
“医療関係者には往々にして、家族も合理的に考えるはずだという思い込みがある。ところがそんなことはない。医師にとって理にかなっていることが、患者や家族にとっては理にかなっていないこともある。医師と家族のお互いがすべてを理解して同意するということはありえない。(中略)
医療関係者にとっては瑣末な問題と思われることが、家族には重大な問題なのである。現状を受け入れられない家族がいるのではなく、そういう家族を受け入れられない医療スタッフがいるだけである”(本書より)
私事になりますが、3年前に父が病院に入院して、介護施設に移り、そこで1年半あまりゆっくりと療養していたときに感じていたことが、佐藤先生のことばを通じて具体的によみがえってきました。柔らかな語り口の本書を読み始めると、私自身の今までの医者としての経験と私の父の介護・看取りを思い出して、涙が止まりませんでした。
佐藤先生の提唱するような生活史を書くことはありませんでしたが、母と私が持ち込んだ、父の若くて元気な頃の写真をみながらおやつの時間に話したことを病院・介護施設のスタッフの方たちが興味深く聴いてくれたことが、どんなに大きな癒しになったかを今あらためて感じています。
“「とにかく、もう、病院という箱物の中で医療するのがきつくなりました。在宅でも病院でもなく、新しい第三のアパートのようなところで、必要な医療と介護を受けて暮らしていけるようなものをつくりたいです」私は4年前に漫然とだが、そのようなことを考えていた”(本書 巻頭より)
脇道にそれてしまいますが、この佐藤先生のつぶやきを読んで私は思い出した映画があります。10年前に公開されたロビン・ウイリアムズ主演の「パッチ・アダムス」です。実存の医師アダムスが、ヴァージニア大学医学生時代に患者をユーモアで楽しませて治療する、無料治療院を郊外の森の中に作ったドラマでした。パッチ・アダムスと佐藤先生を同列にしては、失礼かもしれませんが、お許しを!

“大事なのは両者の信頼関係に基づいた対話である。それは決して難しいことではない。できるだけ患者さんのところに来た家族には、声をかけることである。そういう小さなことの繰り返しが大事である。日頃のそういう関わり合いが、最終的には難しい選択のときの役に立つ。
パターナリズムの時代、患者の権利、インフォームド・コンセントの時代を経て、これからは二項バランスの時代、対話・関係性の時代になるのではないだろうか”(本書より)